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メモリアル


20081218日 午後1015分頃 櫻は亡くなりました。

当時三重県にいた私は深夜に知らせを受け取りました、始発迄の苛立ち、そし

て死体安置所で変わり果てた愛娘と対面した時の凍りつくような感覚をこの先

死ぬまで忘れる事は無いでしょう。

幼少時より活発で聡明だったあの子が何故という思い、鬱と戦いながら5年余

自殺願望を知りながらとうとう防げなかった油断への後悔、よく快方に向かっ

ている時期が危ないといわれますが良くなっていたのか悪化していたのか、今

となっては判りません。

その日の櫻の行動を知りたいと思いとりあえず部屋にあったパソコンを覗いて見ました、すると
http://www.befrienders.org/int/japanese/index.asp?PageURL=bereaved.php

このページが開きっぱなしになっていたのです、救いを求めていたのか、家族へ気を確かにとい

うメッセージだったのか? その日は一日中自殺サイトばかりを見ていたようです、履歴の最後

の時間は夜 丁度9時頃でした、たまたま母親も仕事で帰りが遅くすれ違いだったようです、

どんな気持ちで なにを考えながら死に場所に向かっていったんでしょう、通行人から110番が

あったのが9時半過ぎ、そして死亡確認時刻が10時15分、家から歩いて15分位の所迄

真っ直ぐ行ったのでしょうか、歩きながら手ごろな高さのビルを探したのでしょうか、直前に友人

に電話を入れていたようです、「飛び降りると家族に賠償金など迷惑がかかるかしら」、と言い

残して電話が切れたそうです、薬(坑鬱剤)で呂律が回らなかったということですが、遺書とか

母親に残したお金等準備しているのを見ると、薬による衝動とは考えにくく やはり恐怖心を

紛らわす為だったのでしょう。

死に顔は14階から飛び降りたにしては傷ひとつなく、少し微笑んでいる様な、とても安らかな

ものでした、まるでこの世の苦しみから解放されたようでした、後頭部、体全身はシーツで覆わ

れ見ることは出来ませんでした、損傷が激しく病院側の配慮だったと思います、想像するに多

分、手すりに後ろ向きに腰をかけ、両手で顔を覆い、そのまま後ろ向きに体を倒して行ったの

でしょう、地面に激突するまでの数秒間何を思ったのか今となっては知ることは出来ません。

 

遺書に残された文面を元に憤りでオリックス自動車に直接抗議をぶつけてしま

ったことが我々家族の過ちだったのです、後に多くの専門家から聞かされたこ

とは、彼らコンプライアンスや顧問弁護士といえども所詮企業の用心棒に過ぎ

ず、公平さなど望む事などできるはずが無いということです。 

思い余って弁護士の先生にお願いして証拠開示の手続きを取りました、裁判所

からの通知の後、会社側の手際のよさにこれは慣れていると当方の代理人は感

じたそうで、事実 以前にも過労から会社から飛び降りた若い女性もいて、苦

い係争の経験があるからです、(詳細は川人直人弁護士著、「過労自殺と企業
の責任」にて)。

 

調査報告の内容で判ったこと。

当初37日の初回会談の時、佐藤、田中GM 酒井コンプライアンスの三人

でプロジェクトを組、公平に調査すると言うことだったのですが、それ以前に

もH常務立会いで聞き取り調査が行われていました、5年前のことで重役立会

いの下、我々の望む調査など期待できる訳は無く、あくまでも損害賠償を避け

るための抗弁のための資料集めとしか思えないものでした。(参)(参2)

 

またY部長の説明として6月、8月の二度ほどでこちらからの連絡が途絶えた

ということでしたが、その面談以前の覚書でも母親の度々のクレームで部でも

有名であったと書き記されています、これから導かれることは2つ、調書が後

付で記された物、もしくは事実を曖昧にしこちらの資料を確認するという姑息

な手段だったか?

何故か、20052006年にかけて母親の必死な訴えを適当にあしらい無視してい

たことが大きな弱みだと感じているからに他なりません

 

N課長も相談を別室で受けたと面談では認めていたのに、その部分の記述はど

こにもありません家庭の相談だと、軽く流しています、これも会社の隠蔽だと

思わざるを得ません。

 

F本人に至っては、母親のみならず櫻本人からも訴えのメールを受けていまし

た、その時点で何故釈明も無く、櫻が亡くなった後名誉毀損だと息巻くのはや

はり死人にくちなしなのでしょう。

 

要は櫻を入社時よりの精神的弱者に仕立て上げ、妄想を膨らませ、挙句退社五

年もたって勝手に自殺した、従ってオリックス側には櫻を救済する義務など無

かったという図式にしたいのでしょう。

しかし中には事実を匂わせてくれる方もいました。 (参)  (参)  

そして何より私が愕然とし迂闊だったと思うこととは2003年 11月時には櫻は

(参)のような評価を受けていたこと、家族の間では微塵もそういう様子を見せ

ず健気にも平静を装っていたこと、会社と家族の間でどれだけ苦しかったことで

しょう、当時を思い出すにつれて哀れで涙が止まりません、もっと早くこの状態

を知り得たら違う対処の方法があったと後悔が尽きないのです。

社会と家族に見せる姿が違うこともままあるかもと思ってオリックス以前の学友

、アルバイト仲間に尋ねて見ても誰も微塵も鬱を感じた方はいません、また大学

時代は医者に掛かった事実は無いのです、このことをオリックスはどう捉えるの

でしょう。

5年も前のことで決定的な証拠も乏しく、労務対策に長けたK弁護士の下対策は

練られているのでしょうし、この先厳しい戦いになるでしょう、もっと早く、在

籍中か入院中に自殺していればもっと告発しやすかったかも知れません、しかし

櫻は必死で生きようとしたのです。

 

そして櫻の意思を継ぎ、同じ境遇の方や家族の方への参考になれば、また何らか

のきっかけで何人かでもこのHPを見て頂ければ櫻の生きた証となると思いこの

ホームページを作成しました、私の生きている間、ここに櫻と一緒に居るのです。

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